オリンピックおたく.

00.3.15

先日シドニーオリンピックのマラソン代表が決まった。またまた
社会現象とかになり、ひと騒ぎだった。オリンピックの価値の一つは
4年に一回ということだろう。トップアスリートにとって4年間トップを維持
することは並大抵ではない。ほとんどの選手がその一回、その一瞬
にすべてをかける。夏の甲子園とはまた違う感動が生まれるのだ。
僕がオリンピックにとりつかれたのは1964年の東京オリンピック。
小学校の2年生だった。以来4年毎のオリンピックは自分の人生の
年表でもある。’68メキシコ=小学6年生、’72ミュンヘン=高1、
’76モントリオール=大学生てなぐあいだ。だから自分の年表と社会
の出来事とはオリンピックを節目として西暦で覚えている。ちなみに
’72はミュンヘン、札幌、浅間山荘、横井さんだ。個人的にはバレー
ボールをやりすぎ、ぎっくり腰で苦しんだ年。
さて小学2年生の僕は、毎日テレビに釘付けになっていた。棒高跳び
フレッドハンセンとラインハルトの深夜に及ぶ一騎打ち。1万メートル
ミルズ、ドン・クラーク、ガムーディの抜きつ抜かれつのラストスパート。
よくも10キロも走れるものだと思ったらマラソンが42.195キロだと
知りぶったまげてしまった。これほど多くの外人を見ることも始めてだ
った。アメリカ国歌がとてもかっこ良く聞こえた。大会後小学校の給食
の時間の校内放送は、しばらくアメリカ国歌やソビエト国歌などだった。
そのアメリカ国歌を一番よく聞いたのは水泳競技。ドン・ショランダーに
あこがれた。金髪のショートヘアー、(アメリカン・ショートヘアだ)
しましまのパンツ、キックターンどれもかっこよかった。
東京オリンピックの閉会式 照明が落とされ、「メキシコで会いましょう」
の文字が電光掲示板に浮かんだ。
たまらないさみしさ、と切なさに僕は泣き出しそうだった。その時父が
酔った勢いで「よし、明日ショランダーを家へ呼ぼう!」と叫んだ。
もう天にも昇る気持ちになった。
結局ショランダーは家へは来なかったが、市川昆監督の「東京オリンピ
ック」アベベにまたまた感動し5キロ程離れた映画館から一人走って
帰ったのだ。